メモ:家族写真をきっかけに
2025年6月18日
memorandum
ある写真家が家族写真の連作を発表しているのが目に入った。共通するのは、自然素材と生成色の服装、自然豊かなロケーション、あるいは無垢材の家具。そして微笑む父と母と子どもたちという家族構成。この一連の写真から強い「ひっかかる」ものを感じた。オーガニックでナチュラルなライフスタイルを表現する写真が、普遍的かつ幸福な家族構成がヘテロカップルと子ども(複数)による核家族であると主張し、写真表現として流通するとき、それ以外の家族像や個人の在り方を目に見えないものとして暗に排除している。
消費社会とテクノロジーへのカウンターとしてのスローライフ・ローカル志向(地方移住)。自然との共生や季節の営みを大切にする生き方は、郊外や田舎と結びつき「昔ながら」を回路として保守的な価値観が温存されるのだろうか。例えばその写真のいくつかの服装からは、伝統的な性別役割分業を前提とした生活の実践が見て取れる。厄介なのは、家族観や性別役割、地方礼賛といった極めて政治的なイシューを、ノンポリのフリをして発表されることだ。穏やかなトーンで政治性を覆い隠し、美しい世界を演出する。
しかし当人たちがどんな生活を実践しようと、それは当人たちの自由であるはずだ。人々が個人的に理想とする暮らしや家族像を追求すること自体何ら問題ではなく、ただ問題となるのはそれが表現として流通し、無批判に消費されるようになったときである。翻っては自分が楽器を持ち人前に立つということの政治性についても自覚せねばならない。見えない他者がそっと排除されるとき、その「見えなさ」に対する違和感を持ち続け、「見えなさ」に光を当てることができるか。そして、あらゆる公約数的枠組みからこぼれ落ちる最後の一人まで意識することができるか。