メモ:日常を音に接続する
女性作曲家会議の発行するマガジンの、渡辺裕紀子さんのコラムを読んだ。The personal is political(個人的なことは政治的なこと)という第二波フェミニズム運動を象徴するスローガンをきっかけに、音楽における「個人」について考察を深めていく味わい深いテキストだった。
広大な自然や夕暮れを眺めるとき、優れた芸術が存在する以前から既に世界は十分に豊潤だったのだと思う瞬間がある。渡辺裕紀子さんの曲は(先日の今井貴子さんのソロリサイタルの曲も素晴らしかった!)優れた芸術性を誇示するというより、後者の感性に寄り添うものだと感じていた。なのでコラムの以下のセンテンスを読んで、とても納得したのだった。
帰国後の創作はそれまでの「新しい」「聞いたことがない音」ではなく、わたしの平凡な「日常」へ向かうようになった。「拾った石がきれいだった」「夕日が美しいから佇んでみる」というような、個人が、個人的に楽しむ小さな日常を音に接続する
最近、もっとパーソナルなものを大切に音楽ができないかと思うようになった。言語化して意識するようになっただけで、ずっと昔からそうやって音楽をしてきた気もする。そしてパーソナルなものの対岸には、公約数的なものがある。この姿勢を通じて2つの価値観を提示できそうだ。
ひとつはパーソナルな価値を尊重することにより、価値が一義的ではなくなる。例えばコンクールで優れた成績をおさめた等の社会的評価は問題ではないのだ。site-specific = “場所ありき”の芸術という言葉があるように、これはpersona-specificとかintimate-specific、あるいはrelational-specificなどと言えるかもしれない。コンクール競争なんか一瞬たりとも関わったことのない自分が言っても何の説得力はないかもしれないけど、競争でてっぺんに登れなくても残された仕事はたくさんあるのだと思う。(まあ、それでお金になるかは別だけど!お金を稼ぐとは公約数的な存在になるということだ)
もう一つは、前衛や新規性といったものとの向き合い方の変化。今までの前衛的な音楽家は「新しい」「聞いたことがない音」を求めて、様式や技法のアップデートに勤しんでいた。みんな誰かがやったことをまたやるのは余計なことだと考えていた気がする。それに対してパーソナルな音楽における前衛性とは、表層的な新規性に捉われず、新しい感覚や価値観を提示する営みに変わる。作曲の矛先は内面に向けられ、自分が必要だと感じる音や構造を誠実に探すとき、私たちは個人として世界に存在して良いのだと示すことになるのではないか。